あの彗星が地球に接近したおかげで、僕の一人暮らしがはじまった。

往復3時間の通学がしんどかった。

京都市の実家から大阪・吹田市にある関西大学までスムーズに行けば80分、バスや電車に1本でも乗り遅れると、往復でだいたい3時間近くかかる。

まず自宅から東寺東門まで歩いてバスで北上し、阪急大宮駅で下車。阪急京都線に乗り、淡路駅で大学生や高校生がたくさん利用する北千里線に乗り換えて阪急関大前駅へ。

帰りは同じルートをたどり、阪急西院駅で降りて、疲れた身体のまま、まったく座れないバスに乗るか、阪急吹田駅から10分歩いてJR吹田駅に向かい、JR西大路駅から歩いて15分かけて家に帰るかのどちらかだった。

どのルートをたどっても通勤通学ラッシュに巻き込まれた。遅くに京都の家に帰ると両親はとっくに寝ていて、起こさないように静かに台所で晩ご飯を食べた。

「1日3時間も我慢する生活は苦行じゃないか」と電車やバスに揺られながら思っていた。関大前の古書店「ぼけ書房」の前でダンボールに詰められた、10円で売られている文庫本(色あせてボロボロ)を買って読むなどして気を紛らせるようにしていた。親からは「自分で家賃が払えるなら一人暮らししてもいいよ」と言われていたものの、大学生のアルバイト代では到底難しいのであきらめていた。

2回生の頃は大学の経商学舎にあるパソコンルームでアルバイトしていた。時給1200円。当時の一般的なアルバイトよりもかなり時給が良かった。

フロッピーディスクにデータを保存する方法やフロッピーを抜き出すにはどういう手続きが必要なのか、電源を落とすにはどうすればいいかという、今考えると初歩的なパソコン操作を教える仕事だけど、前年の1995年にマイクロソフトのWindows95が登場したばかり。まだ「インターネットというのがあるらしいで」というレベルの1996年だったので、パソコン操作ができる人が少なくて需要のある仕事だった。

僕はパソコンを持っている友人に一夜漬けで教えてもらって面接をクリアしたちゃっかり者だった。しかし時給1200円のバイトは時間がたっぷりとある大学院生に人気がありすぎて、2回生の僕は授業の関係で週1回ぐらいしかシフトに入れず、ぜんぜん稼げなかった。

それで学生課に貼ってあった求人の中から「梅田 梱包・運搬 時給800円」という求人票を見て、高校生のときにしていた引越バイトでの荷物の運搬と似た力仕事だろうと思ってその仕事に応募した。

新しいバイト先は店長ひとりと僕を含めたアルバイトの学生2〜3人、事務の方がひとりの小さな望遠鏡販売店だった。お買い上げが決まると商品を段ボールに梱包するけれど、宅配業者が毎日訪れて荷物を受け取って運んでくれるので、思ったよりも力仕事ではなかった。

対面販売もやっているけれど、どちらかといえば天文雑誌に広告が掲載されていたので通販が主な仕事で、電話応対するのがメインの仕事だった。

少しずつその仕事を覚えはじめた頃、ヘール・ボップ彗星が地球に接近していた。

ヘール・ボップ彗星 - Wikipedia

ヘール・ボップ彗星はヘールさんとボップさんによって1995年に発見され、1996年の夏には肉眼で見えるようになった。1997年3月には地球に最も接近した。Wikipediaによれば次に地球に接近するのは西暦4380年らしい。とにかく「みんなが生きている間にこんなどデカい彗星が見られるチャンスはないよ」とニュース番組が報じ、当時普及しはじめたインターネットによって情報が世界中に広がっていた。

すると星空の知識はバイト先で聞きかじった程度の僕でも一台300万円ぐらいするPENTAXの望遠鏡などを売ることができた。自分ひとりで1日に10台ぐらい売った日もあった。ピーク時はトイレに行く暇がないぐらいバイト先の電話がけたたましく鳴っていた。電話に出るだけで何かが売れた。

中学や高校の天文部からの大口の依頼も多かった。天文ファンだけでなく、彗星の到来をニュースで初めて知った人の買い物も多かった。バブル経済は過ぎ去っていたけれど、天文業界のバブルは彗星とともにやってきた。2001年に梅田にヨドバシカメラが開業する前だったというのも大きい。

僕は平凡なアルバイトの大学生なのに社長からボーナスをいただき、たった2〜3ヶ月で100万円ぐらいのバイト代が貯まった。今思えばずっとフリーランスで働いているのでボーナスをもらう体験はこのときが最初で最後かもしれない。

「あれ? もしかして、あきらめていた一人暮らしができるのでは?」

そう考えて大学のキャンパス内にあった不動産屋で物件を探したところ、共益費込みで月の家賃が6万円の新築のハイツが大学のすぐ近くに完成しつつあるところだった。工事中の様子だけ見て間取りなどを考えずにそこに決めた。

関大の正面玄関から図書館やグラウンドの賑やかなキャンパスを通り抜け、坂道を上り下りすると静かな住宅街になる。子育て世代やシニア層がご機嫌に犬を散歩させるような上山手町にそのハイツはあった。上山手町という響きだけでどこか優雅だった。

名神高速道路沿いで防音壁はあるものの、実際は常に自動車の走る音がしていた。1階の角部屋で壁のすぐ向こう側に集合ポストがあるせいで、朝のポストの開け閉めの音がうるさかった。それでも一人暮らしできることが満足だった。

一人で暮らししてみて自分の生活能力の低さに驚いた。

ボーイスカウトをしていた子どもの頃は火をおこして飯ごうから米を炊いていたのに、炊飯器を使った米の炊き方を知らない世間知らずだった。冬に食器を洗うつらさを知った。洗濯機や冷蔵庫がめちゃくちゃ高いことを知った。電気代を滞納して部屋が真っ暗になったとき、キャンプで使う山登り用のヘッドライトが役立つことを知った。

料理に慣れていない人が自炊すると高くつく。近所で暮らす友人たちとスーパーに繰り出して、みんなでご飯をつくって食べたら楽しくて安あがりだと知った。冬は鍋をよくした。カレー部部長になった。カレー部といいつつ、いろんな友人がさまざまな料理をつくりにきてくれた。当時のノートを引用する。

・1997年5月3日 カレー合宿
・1997年8月19日 スパケッティー合宿
・1997年9月10日 中華料理合宿
・1997年9月20日 お好み焼き合宿
・1997年10月15日 うどん、そば、もち合宿
・1997年10月16日 スパケッティー合宿
・1997年10月23日 焼きそば合宿
・1998年2月7日 パーティー合宿
・1998年9月5日 ツナカレー合宿

ちゃんと書き留めているものだけでこれだけあった。カレー部といいつつ、毎回料理が違う。パーティー合宿にいたっては、なんのことかよくわからない。

部活っぽくするために合宿と呼ぶようにしていた。結局僕は何かをみんなでつくって食べるのが好きなシンプルなやつなんだと知った。通学時間の長さだけでなく、物音を立てないように台所で晩ご飯を食べていた時間もストレスだったんだと今は思う。

自宅に友人たちが遊びにきて、まな板が置けないような、めちゃくちゃ小さなキッチンに、誰かがもってきた調味料や食器類が増えていった。ゼミのみんなと先生も含めて家で忘年会をした。

遅くまでしゃべり、こたつでみんなと雑魚寝して次の日を迎えた日もたくさんあった。あまり火が通っていなかった鶏肉を食べたせいで、次の日のバイトはずっとトイレに行くはめになったこともあった。

わずか1年と少しの出来事だったけど楽しかった。最後のほうは就活で忙しくなり、バイトにぜんぜん入れなくて家賃を滞納し、大学の経済支援制度を使ってお金を借りた。

学長室に呼ばれ、神妙な顔をして「必ずお金を返すことを約束します」と伝える練習をしたけれど、実際は簡単な書類に理由と銀行口座を書けば後日お金が振り込まれる仕組みだった。書類を書いていると経済支援制度を利用している大学生がほかにも山ほどいる様子だった。

大学近くのパン工場(確かヤマザキパン)の中のフロア全体がまるごと冷蔵庫になっている寒すぎるスペースで、ケーキの土台となるスポンジ部分をひたすらワゴントラックに運ぶという短期バイトのおかげで大学に借りたお金を返すことができた。

あの頃はこんなストーリー仕立てで考えてなかったけれど、3時間の通学の苦痛から逃れて「一人暮らししたい」という僕の願いは彗星が叶えてくれたことになる。ロマンチックな話だが、実際はバイト先が梅田だったので、通学は楽になったけれどバイト先への通勤はしんどかった。

当時ググるなんて言葉もなく、情報は身近な同級生や先輩の経験談から仕入れていたから薄い知識しかなく、自分でいろいろ経験するしかなかった。だから効率は悪かったけれど、在学中にあの部屋を借りて一人暮らししていなければ経験できなかったことをいっぱいしたし、しんどいバイトの日々が今はいい思い出になっている。

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