6月26日に開催される「サロン文化大学の映画まつり」にゲスト出演していただく渡邊太さんの大阪国際大学にある研究室を訪ねました。映画「パーティー51」との接点をお伺いします。
渡邊太 社会学者 1974年大阪生まれ。大阪大学大学院人間科学研究科博士後期課程修了。博士(人間科学)。2012年から大阪国際大学人間科学部心理コミュニケーション学科専任講師。専門は文化研究・宗教社会学。ただ生きていくことが並々ならぬ労力を要する事態に陥った末期資本主義のなかで、脱落しながら生きていく可能性を探る社会運動の研究に従事しつつも、世界が見えているものだけで成り立っているわけではないことを思い知らせてくれる宗教の研究も地道に続ける。特定非営利活動法人 地域文化に関する情報とプロジェクト(NPO recip)会員、特定非営利活動法人 日本スローワーク協会理事、「てしまのまど」散歩部、国際脱落者組合(International NEET Union)組合員。著書に『愛とユーモアの社会運動論―末期資本主義を生きるために』(北大路書房、2012年)、『現代社会を学ぶ―社会の再想像=再創造のために―』(共著、ミネルヴァ書房、2014年)『聖地再訪 生駒の神々』(共著、創元社、2012年)など。webzine『脱落』。
ー映画「パーティー51」を知ったきっかけはなんですか?
映画にも出演しているYamagata Tweaksterというミュージシャンのファンで、何度か彼の路上ライブを見ています。彼は基本的にはインディーズのミュージシャンですが、たまにテレビに出たり、政治的な現場に現れるような方で、日本で言えばソウル・フラワー・ユニオン的な存在のアーティストですね。
韓国への関心が高まったのは僕が阪大の研究員をしていた2005年頃です。知り合いから「ソウルに面白い場所があるよ」と教えられて。そこは哲学とか文学とか社会学をやっている人が集まっている場所で雑居ビルの一室なんです。大学の外に自分たちでお金を出し合って、勉強したい人が集まっていると聞きました。その研究空間の名前はスユノモと言います。
ー小さな大学を自分たちでつくったような場所ですか?
そうですね。やっているうちに規模が大きくなって、毎年海外の有名な研究者を呼んだり。
ひとつ面白いのがご飯も一緒に食べれるんです。炊事場があって、勉強している若い人はみんなお金もないので、ひとり分つくるよりも10人分つくるほうが安上がりなので、そこでみんなで食べるんです。確か日本円で120円ぐらいで食べれました。
ーそれは若い人たちは助かりますね。そういう場所は日本にもありますか?
日本だったら哲学カフェみたいなものはあるけれど、ビルの一室を借りて、ずっといつでも誰かいて、という場所はないかもしれないですね。それが面白いなと思って、大学の研究会とかで興味ある人たちといっしょに行ってみたんです。そこからYamagata Tweaksterとか、つながりができていきました。スユノモに出入りする人は政治的な関心を持っている人が多くて、結構デモとかにも出掛けたりしますから。スユノモでは今起きている政治問題、社会問題についてみんなで議論します。
ーまじめな集まりなんですね。
まじめですね。カンパしたりとか、市民講座を平日夜に行って社会人の方から受講料をいただいて運営しているようです。一番大きい規模の頃はソウル市内のビルのワンフロアを借り切っていましたね。部屋がいくつもあって、食堂もあって。
ーそういう居場所を求める空気が韓国の社会にあったということでしょうか?
韓国は日本よりも人文系というか、哲学書が一般的に読まれるらしくて、そういう空気があったのかもしれないですね。スユノモに行くとだいたい誰かが日本語をしゃべれるんですよ。韓国では日本語を勉強している人は結構多くて、日本語ブームになっている。漫画やアニメが好きで勉強しはじめた人が多いです。スユノモに日本人の留学生も出入りしているので、彼らが間をつないでくれたりしますね。
ーそこから興味の対象はどう広がっていったんですか?
スユノモの場所自体が面白かったし、スユノモの人を通じて韓国の政治的な問題とか、デモとかに足を運んでみたりしました。
この写真は車椅子の障害者の方のデモです。韓国でもラディカルな障害者団体で、彼らを機動隊が取り囲んでいます。東大門市場という繁華街の近くですね。大阪で言えば、難波の高島屋の前みたいな場所で行われたデモです。
ー渡邊さん、参加しているじゃないですか(笑)
行ったらこの青いビブスをつけてと言われて(笑)。”発達障害者の支援を手厚くしろ”と書かれています。
こちらの写真はソウルから北東へ電車で一時間ぐらいの農村地帯です。
農地が70年代ぐらいからあって、有機農業をされています。そこがサイクリングロードをつくる計画のために立ち退きを迫られて。パク・クネ政権の前のイ・ミョンバク政権時代の健康のための政策のひとつですね。
立ち退きに反対して農民たちの座り込みに若い人たちが参加していて、「パーティー51」に集まっていたようなミュージシャンとかもやってきました。時期的にはパーティー51と同時進行ぐらいですね。
ー「デモに行こうぜ」というノリが若い人たちの間で普通にあるのでしょうか?
基本的には若者の間でも一部の人たちですが、その幅は日本の若者よりもだいぶ広いですね。その理由は3つの要素があります。
- ひとつには座りこみをしている現場のほうも若い人たちをすごく受け入れるからです。若者のノリがそのノリのままに受け入れられる。硬い空気感で「反対!」という方もいるけれど、若い人が自由に夜になると歌ったり、ライブやったり、泥んこになったりするのも受け入れられます。
- 現場が若い人を受け入れる理由につながるのですが、時間の幅をとると80年代まで韓国はパク・チョンヒの軍事政権でした。今のパククネ大統領のお父さんです。民主主義を求める人たちは政治犯として投獄される時代です。当時学生として民主化運動が盛り上げた人たちが今の50代ぐらいで、引き続きいろんな運動に関わっているから運動の記憶も新しいし、経験もあるし、政権との戦い方も知っている。記憶が途切れていないですから。日本だと運動は続いているけれど、全体としては見えにくいようになっています。
- もうひとつは最近の話ですが、2008年にソウルで韓国蝋燭デモ(写真はwikipediaより引用)という大きな動きがありました。
当初は文化祭レベルだったものが、牛肉輸入問題などを契機に教育問題や当時のイ・ミョンバク政権への批判など相まって100日ぐらいデモが続きました。若い子がろうそくをもって集まろうと呼びかけたのですが、行動すると大きな力になるという実感が、ひとつ最近の象徴的な出来事としてあります。政治的なことに参加するのもかっこ悪いことではないという感覚が若い人たちの間であるわけです。
これらの背景があって、運動に参加するようになった若い人が年配の方たちとうまく連携していて、なにかあったら火がつきやすい状況になっています。
農村の件も最終的には和解に合意することになりました。部分的には認められたかたちで、なかば妥協でもあります。それをお祝いしようというわけで、ビニールハウスにあるテントがディスコになって、音楽を聴いたり、農民のおじさんも若い子とまじって泥んこプロレスみたいなことをするわけです。
労働組合も日本よりも戦闘的でストライキをよくやるんですよね。
ーストライキは昭和の出来事のように感じるのですが、今も行われているものですか?
今もです。座り込み文化があるんじゃないかな。最近では大手のスーパーマーケットでレジ係の女性たちが座り込みをするとかニュースになっていました。
先ほどの車椅子のおじさんの話に戻ると、電動車椅子って結構馬力があって、機動隊の盾に全力で突入したりするんですよ。うわ、自由やなあと思って。
ーそれは韓国特有の気質なのでしょうか?
韓国だけでなく、2014年の台湾のひまわり学生運動とか2014年の香港反政府デモとか、アジアは基本的には同じようなかたちで、例外的なのはむしろ日本のほうです。デモがあっても道路の一車線しか使えないし、使わない。警察の指示にまじめに従うわけです。
ー日本はお利口さんすぎるということなんですかね?
お利口なんです。
ソウルではデモを機動隊が止めていても、止めるほうが危ないので開くしかない。機動隊のバスが倒されたりするので。大群衆の中では誰がやったかわからない。危ない目にあったことはなくはないです。逃げ遅れると警官に囲まれます。
障害者の方には機動隊や警察は、あまり迂闊に手出しはできない。そういう意味でしたたかで、そういう自由なデモなんです。そういったデモの集会の場面にYamagata Tweaksterは現れて、さらに自由に歌い始めるんです。
これはすごいな、楽しいなという感覚です。
スユノモに出入りしている日本人の留学生は、「彼は境界をこえるミュージシャンだから」と発言していました。
ー学者の方は境界という言葉が好きですね。
社会学者はよく使いますね。ライブハウスでライブをしていても彼は外に出ていくんですね。狭い空間から外に出て、いきなりデモがはじまるのです。来日したときも出ていって、結構怒られたらしいです。
京都のメトロって京阪電車の改札口と直結していて、あらかじめ出るかもしれないけど、改札のほうは交通が混雑するとたいへんなので来ないようにと言われていたけど出て行っちゃったんです。
ーファンは境界を超えてほしいですよね(笑) 渡邊さんはそれらの事象の中でどんなことに関心があるのですか?
面白いと思うのは「人が自由に表現する」という、自由というのが相当自由なんだというのを目の当たりにした驚きと喜び。デモは基本表現活動だと思うんです。わたしはこれを許せないとか。
普通に日本で一車線をゆっくり歩いてデモをするだけでも開放感があるんですね。それが全車線を埋め尽くしたりすると、すごくこう、開放感であるとともにみんなの不満を共有している感じとか体感できます。
もちろん「なんだよ!」と怒って車のクラクションを鳴らす人もいるのですが、いてもしょうがいないよねというある種、納得もあったりします。クラクションを鳴らす運転手の方にビラを配ったりして、議論していたりとかも面白いし。
振り返ってみるとその表現の幅がなかなかわれわれ日本人は狭いままなんじゃないかという感じがして。
音楽もライブハウスの空間の中では自由ですが、もっと突き破るような表現もあるんだな。とインパクトをうけたんですね。
座り込みの現場って時間の流れ方が違う。ある種、時間がとまっちゃうというか。通常の意味での経済活動がストップする。それでも生きていくために抵抗をしていて。そのときの人間の意識って、普段の稼ぐために働く意識のあり方とやっぱ違うのでは。わりと僕は表現が気になるのでそこをずっとみていますね。
ーなるほどなるほど。ありがとうございました。
これらの話の続きが気になる方は、ぜひ6/26のサロン文化大学の映画まつりにお越しください。
取材・文 / 狩野哲也(2016/04/11)